Fleur de Noir

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【書評】架神恭介著『仁義なきキリスト教史』

仁義なきキリスト教史 (ちくま文庫)

仁義なきキリスト教史 (ちくま文庫)

 

こちらを読んだ。(読んだのは単行本版)

大まかなレビューはブクログの方に書いたので、 
暇と興味があり、かつ読んでみてもいいよという奇特な方はこちらをご覧ください。 

↑は万人向けだけど、こっちではもう少し突っ込んだ話をしようと思う。 

※註:以下の文章には、一部宗教批判、キリスト教批判ともとれる内容があります。 
特定の宗教への信仰がある方や、クリスチャンの方はご自身の判断でお読み頂きますようお願いします。 

さて。。。 
私は信仰心とかはほぼ皆無であるが、ミッション系大学の西洋史専攻として知識・教養としてのキリスト教には興味がある。 
(入学と同時に聖書も買わされたので持っている。当時の東女では、キリスト教学は6単位必修。) 
というか政治史にしろ、文化史・社会史にしろ、根底にあるキリスト教史やその文化を理解せずに西洋史を正しく理解することは不可能だ。 

しかし筆者も書いている通り、今や世界三大宗教の一つとなったキリスト教も2000年前は怪しげな新興宗教である。
突然ヤハウェという名の神を掲げ、その子だか弟子だか知らないがイエス・キリストなる者が登場し、挙句の果ては神への忠誠を示すために上納金を出せとのたまう。 
怪しさ満点である。 

本書は、キリスト教世界の歴史をやくざ世界の抗争の歴史になぞらえて語られる異色作。
しかし本書の真価は、キリスト教史をやくざ世界に例えて分かりやすく、面白く小説家したことではなく、現代日本人がやくざ世界に対して抱いている“怪しげな感じ”が、2000年前のローマ人がキリスト教に対して抱いていたイメージと近いのではないか?という提唱ではないだろうか。 
キリスト教は一部の熱狂的な信者を得つつも、古くはローマ帝国の時代から時の権力者に利用され、時には世俗の権力者を利用しながら、西欧の政治や文化と渾然一体となって発展してきた。 
一方、今でこそ暴力団排除令が制定され反社会的勢力に対する風当たりは強くなったが、一昔前までは、任侠映画がコアな人気を得るなどそのミステリアスな世界は一般人にとってある種魅力的であったし、戦後日本の政治・経済の発展を語る上で裏社会との関わりを全く抜きにすることはできないだろう。 

また筆者は、その思想も極道の世界のそれに近いことを指摘している。 
これについては私も機会があれば実家にある聖書を探し出して確認したいと思うのだが、例えばヤハウェの思想について筆者はこのように言及している。 

ヤハウェは愛ゆえに妬む。恐るべき嫉妬感情に突き動かされ凄まじい暴力を振るう。妻が自分を裏切ったらどうするか?死ぬ寸前まで殴るのである。殴れば妻が帰ってきてくれると本気で思っている。恐るべきDV神であり、若者言葉で言うならばヤンデレの神である。」(P.147) 

また、同頁ではパウロについても 

「少なからぬキリスト教徒が彼のことをクルクルパーだと思っていたのではないだろうか。」 

と書いている。 

そういう同時代人から見た怪しさ、「なんかよく分かんないし恐いけど無視もできない」みたいな同時代人の感覚を読者に理解してもらうために、やくざという例えを用いたのではないか。 
キリスト教史を理解する意味では他にも良書が多くあるだろうが、同時代人のキリスト教に対する感覚を理解する上で本書はとても優れていると思う。 

書評とは関係ないが、本書を読む上で関連する用語や歴史的事実をググってるうちに、我が家に頻繁に布教活動に訪れるキリスト教系の新興宗教は「エホバの証人」であることが判明した。 
私はあらゆる新興宗教のうち、キリスト教系や仏教系、神道系のものが最も怪しいと思っている。 
現代の日本で、キリスト教や仏教、神道の教えに目覚め、神や仏の教えを請いたいと思った場合、教会や寺や神社に行けば良いのではないだろうか? 
既存の神を否定して、「我らが教祖様こそが我々を救ってくれるのだ!」という主張の方が、理屈としてはある意味理解できる。 
でも、神や仏は既存のもので、教義や信念が違うというのは怪しさ倍増な感じなのだがどうだろう。