Fleur de Noir

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大相撲における横綱の品格とフィギュアスケートにおける4回転論争

大相撲春場所千秋楽結びの一番において、横綱白鵬関が立合の変化で日馬富士をくだしたことについて、あちこちで賛否両論巻き起こっている。

私は、相撲については特に言えることはないので、横綱の立合変化の是非については問わない。

ただ、この賛否両論巻き起こっている感じ……。

「王者なんだから正々堂々と」「作戦の一つとしてあっていい」

というこの二者の理論、このモヤモヤ……なんだかものすごくデジャヴ感を覚える、と思っていたら、フィギュアスケートにおける4回転論争によく似ているのだ。

 

2008年の世界選手権においてジェフリー・バトルが、2010年のバンクーバー五輪においてエヴァン・ライザチェックが、それぞれ4回転をプログラムに組み込まずに優勝したことで、プルシェンコを中心とする“4回転派”から一大論争が起こった。

ライザチェックは、「男子の五輪チャンピオンが4回転を跳ばないなんて……」と、一部のスケート関係者、及びスケオタより大きく批判された。

 

がしかし、現行のルールでも「4回転ジャンプ」が必須になっていない以上、別にルール違反を犯しているわけではない。

なのに、「チャンピオンとして」「王者として」という、曖昧模糊なモラルなのかマナーなのかよく分からない謎ルールにおいて批判される。

相撲においてもフィギュアスケートにおいても、そこにあるのは「素晴らしい試合が見たい」というファンの期待である。

そのスポーツの限界に挑戦する者同士の対決だからこそ、見る者の胸を打つのだ。

一方で、スポーツとはいえ勝負事なのだから、“勝ち”にこだわった戦い方をすることが競技人生において1度や2度あってもいいじゃないか、という見方もある。

バトルとライザチェックは、ここ一番というタイミングでその作戦を使った。

それでも彼らが金メダルを手にする保証はなかった。

金メダルはあくまでも結果であるので、彼らの作戦を批判するのはナンセンスなのではないだろうか。

(唯一、白鵬関に言えることがあるとすれば、「最近その作戦使いすぎじゃね?」ということだろうか。)

 

現在、4回転論争には一応の決着がつき、今や「4回転を跳ばないと勝てない」時代に入っているので、この議論が蒸し返されることはもうないだろう。

が、10年後か20年後か……5回転ジャンプを組み込む選手がTOPクラスに現れ始めたら、今度は「5回転論争」が巻き起こるだろう。

 

フィギュアスケートにおいて、これと似た種類の論争として、「技術力か表現力か」というものがかつてあった。

90年代~2000年代前半の頃であろうか。

カタリナ・ビットは天才ジャンパー伊藤みどりに対し、「人々はゴムまりが跳ねるのを見に来たわけではない」と批判しているし、4回転サイボーグと謳われたブライアン・ジュベールと屈指の演技派であるフィリップ・キャンデロロの対立は有名である。

 

これについては、新採点方式に移行した時点でISUとしての見解は表明された、と私は思っている。

当時、技術点と芸術点が同等になるように、最先端の技術レベルを得点化した際のシミュレーションを行い、配点を決めたということだったが、技術の進歩によりいつか技術:表現≠50:50になることは容易に想像できただろう。

そしてソチ五輪を終えて、技術>表現となる時代を迎えている。

平昌五輪では確実に、技術力を競い合う大会となるだろう。

がしかし、過去記事「“表現力”とは何か」でも言及したように、現代のフィギュアスケートにおいて、表現力は技術力の基盤の上に成り立っている。

yuhri-rainbow.hatenablog.com

決してフィギュアスケートにおいて最も大切な要素の一つを棄てたわけではない。

 

話がそれたが、大相撲において横綱に求められる品格というものは、フィギュアスケートのみならず他のあらゆるスポーツの王者にも求められるものである。

特に大相撲ファンでもない人のために他の競技に置き換えての比喩がしっくりこないのは、日本人に身近なスポーツにおいて“絶対王者”というべき存在が君臨しているのが、大相撲とフィギュアスケートだけだからではないだろうか。