Fleur de Noir

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“表現力”とは何か

中国大会での本郷理華の演技が大きな話題になった。

ブロガーの皆さんも何人もの方が記事を書いておられたが、その中のお一人のコメントがきっかけで、「フィギュアスケートにおける表現力とは何か?」ということを考えてみた。

この、点数化できないけれども、どうにかこうにか点数化して、若干の疑問の予知を残したり、議論を巻き起こしたりしている“表現力”というものについて、私の思うところを述べたいと思う。

 

まず、私の中では「技術は後からでもついてくるが、表現力は天性のもの」という信念は揺るぎないものとなっている。

技術も、天性のバネとか運動神経とか、持って生まれたものはもちろんあるが、表現力については天性の素質がない選手がそれを後天的に身につけるのは非常に難しい。

では、表現力の元となる“天性のもの”とは何か?

 

これは別にフィギュアスケートに限らず、あらゆる表現芸術に共通するものだが、表現力に優れている人間というのは、“感情の量”が一般人と比べて圧倒的に多い。

“心”という入れ物の中にある感情の量が多すぎて、何らかの形で“表現”し、外に出していかないと心がパンクしてしまう人たちである。

感受性が豊か、と言い換えてもいいだろう。

表現の手法は、小説、絵画、音楽、ダンス……など人によって様々だが、フィギュアスケートも溢れ出る感情の表出先となり得るものの一つだ。

 

私が“才能としての表現力がある”と思う選手は、高橋大輔鈴木明子安藤美姫カロリーナ・コストナー、古くはフィリップ・キャンデロロ、更に古いところでカタリナ・ビット、そしてジュニアラストイヤーからずっと注目してきた本郷理華である。

(他にも何名か候補はいるが、まだ確信がないので割愛)

 

一方で、“天性の表現力”とは別の次元で、“王者の風格”というオーラの力で、他選手の表現力を凌駕してしまう人たちがいる。

これはもう誰もが納得すると思うが、エフゲニー・プルシェンコ羽生結弦である。

プルなんて、よーく見るとスケーティングは荒いし、トランジッションも雑なのだが、「でもいいの!プル様だから!」で、全て納得させてしまう何かがある(笑)。

フェルナンデスも、昨シーズン世界王者になってから明らかに演技の質が変わったが、それは、ジャンプの質やスケーティングの美しさとは別のところにあるものだ。

 

しかし、後天的に感情の量を大幅に増やし、表現力を開花させた選手もいる。

羽生結弦浅田真央、二人の日本人スケーターである。

羽生は、震災の経験によって一気に感情の量が増大し、11-12シーズンからの演技が全く違うものになった。

浅田の場合は、元々の感受性は高かったと思うが、いかんせんインプットが少なすぎた。

感情の量が多くても、出せば減るわけで、アウトプットばかりでは枯れてしまう。

1年間の休養で多くのインプットを、それも未知の体験をたくさんすることで、元々持っていた感受性を取り戻した、という方が近いかもしれない。

 

他、感情の量を増やす二大要素は、オリンピックと恋愛だろう。

タラソワも浅田を指導していた時「恋をしなさい」と言っていたというし、オリンピックを経験することが才能を開花させる呼び水となり、翌シーズンから大きく飛躍する選手は多い。

 

さて、ここまでは「選手が持っている表現をする能力」の話。

だが、フィギュアスケートにおいて採点が絡んでくると話は少々ややこしくなる。

現在の採点方式では一般的に、

「Program Components Score=演技構成点」が表現力を点数化したものと言われている。

しかしその内訳を見てみると、

 

  • Skating Skills
  • Transition / Linking Footwork
  • Performance / Execution
  • Choreography / Composition
  • Interpretation

の5項目で、それぞれ以下のように訳されている。

  • スケーティング技術
  • 演技のつなぎ、動作
  • 演技と実行
  • 振付/構成
  • 音楽の解釈

よく見ると、“表現力を示す”はずの演技構成点5項目のうち、上の3項目は技術力に対する得点となっている。

技術力であるから、“感情の量”という天性の才能がなくても、後天的に表現力を身につける機会に恵まれなくても、努力と練習次第で伸ばすことは可能である。

そして4番目の「振付/構成」。

これは現在のプログラム制作の流れの中では、半分は振付師に対する得点だと私は思っている。

残りの半分は、その振付を、振付けられた通りに滑る、選手の身体能力とリズム感に与えられる得点。

つまり、本当に純粋に“表現力”を示す得点は、PCS5項目のうちの1つ、満点でも10点にしかならない「音楽の解釈」のみなのである。

 

ここに、現行の採点システムの落とし穴がある。

私たちが見たときに「すごく感動する演技だったのに、PCSが思ったより低い」という原因はここにある。

しかし、そのPCSの内訳をよく見てみると、他の4項目と比べて「音楽の解釈」が突出していることはよくある。

新採点方式が導入されたばかりの頃は、PCSの点数の内訳がテレビでも出ていたのだが、いつの間にか表示されなくなってしまった。

これも、誤解を生む1つの要因かもしれない。

 

かつて6点満点方式の時代、表現力を示すのは、「Artistic Impression=芸術的印象」と呼ばれ、純粋に表現力を示す得点であり、技術と表現の割合は50:50だった。

芸術点で6.0を並べれば、ジャンプ1つ分の失敗くらいはカバーできた。

 

しかし新採点方式に移行して以来、情勢は大きく変わっている。

まず、男子でショートでTES 50点を、フリーでTES 100点を優に超える選手が現れ、PCSで満点(100点)を取っても技術力のある選手には敵わなくなってしまった。

そして、PCSの半分以上が実は技術に対する得点である以上、TESが低ければ連動してPCSも下がる。

私もかつては、例え転倒があっても感動する演技の方が、ジャンプをポンポン跳ぶだけの演技よりも好きだったが、最近は少し考え方が変わっている。

 

ジャンプもスピンもステップも、演技を構成する要素の1つ。

それらが全て上手くいって、初めて表現に目がいく。

というか、「ジャンプが成功するだろうか」とか、「あー、転んだ!」というのがあると、気が散って演技に集中できない(笑)。

現在ISUが目指しているフィギュアスケートというのは、“高い技術要素が演技のパーツとして組み込まれ、埋もれてしまうような演技”なのだろう。

だからこそ、4回転をまるで3回転のように跳んだり、ステップからそのままジャンプに入ったりすると高評価を得られる。

 

現行の採点システムに移行した当初は色々と問題はあったが、10年かけてようやくシステムが成熟してきた感がある。

この採点方式では、何を評価し、どんな選手に高得点を与えるか、という判断基準がようやくほとんどのジャッジに浸透し、統一されてきたのではないだろうか。

今後この採点方式が見直される時がくるとしたら、技術力がさらに進歩し、TESで150点くらい取る選手が出てきた時だろうか。

 

現代のフィギュアスケートにおける“表現力”は、技術力の基盤の上に成り立っている。

それは私たちが“見た印象”とは異なることもあるが、技術力と努力で表現を窮めた選手のことはやはり賞賛すべきだろう。

ファンとしては、「感動した」と思える演技で金メダルを獲ってくれることが、また感動する要素となるのだけれど。

 

完全に余談だが、TV朝日アナウンサーの坪井氏が本郷理華について、

「昨シーズンのカルメンの衣装で踊る姿を見て、カタリナ・ビットを彷彿とさせると思った」

とコメントしていた。

確かに、本郷理華が目指すべきは、伊藤みどりでもミシェル・クワンでもなく、カタリナ・ビットかもしれない。